創立者 松井達喜
創立者 松井達喜
1「熊本マンドリン協会のあゆみ」によせて 松井達喜
(創立25周年記念誌「熊本マンドリン協会のあゆみ」(1979年)からの転載)
「熊本マンドリン協会のあゆみ」の完成を心からお喜び申し上げたい。
古来「10年ひと昔」というから、熊本マンドリン協会が創設されたのは今から
もうふた昔も前ということになる。ここにこうして25年史を見るに際し、創立
当時のメンバーのひとりとして誠に感慨深いものがある。
昭和29年、私たちは、それぞれマンドリンやギターをたづさえて集まった。
人数はわずか10名たらずで、しかも楽器は安もの、技術も極めておそまつ、し
かし、マンドリン音楽を愛する気持だけは、誰にも負けなかった。そしてそれか
ら、ただひたすら練習を続けた。熊本マンドリン協会の25年の歴史は、ここか
ら始まったのである。
マンドリン協会の25年間のあゆみは必ずしも平坦ではなかった。それは、喜
びと苦しみの波動のくり返しだったとでもいえようか。
夢にまで見た第1回定演の実現を目前に、私の親友であり、熊本マンドリン協
会の育ての親ともいうべき福田亘君(当時コントラバス奏者)を亡くしたときの
悲しみ。また、メンバー激減のため、涙をのんで定演をとりやめた48年と49
年(年は昭和を示す。以下同じ。管理人註)の忘れられない痛恨の2年間等々、
苦しかったことを挙げれば枚挙にいとまがない。
しかし、これらをわれわれに与えられた試練として受けとめ、それを乗り越え
て得た喜びや感動もまた大きかった。
初めての演奏会(37年)、熊本マンドリン協会の第1回定演(41年)、そ
して2年間の空白ののちの第7回定演(50年)など、それぞれの喜びと感動は
生涯忘れることがないだろう。
マンドリン協会の会員数は、創設以来今日まで、既に550名に達している。
毎年の演奏活動はこの人たちの努力によって行われ、また25年間の歴史はこの
人たちの手によってつくられたものである。
私も良き友、良き後輩に恵まれ、それが20年もの永い間の指揮生活の支えに
なった。ただただ感謝の念でいっぱいである。
更に忘れてならないのは、マンドリン協会創立以来今日までの演奏活動に、惜
しみないご援助とご鞭撻を下さった各界の方々、それに友好団体各位のお力であ
る。ご多忙の中から、私たちの練習に時間をさいて下さったみなさま方に、心か
らの謝意を表する。
さて、25年の歴史を人間に置きかえれば青年期である。まだ、未熟ではある
が、将来にあらゆる可能性をもっているといえよう。多くの先輩たちの努力よっ
て培われた良き伝統が、今後のプレクトラム音楽の発展に活かされれば私として
もこんなにうれしいことはない。
現役会員諸君の、若い情熱と、より一層の研鑽とに大いに期待するところであ
る。最後に、この25年史の出版に奔走された編集委員各位と、温かい御援助を
下さった関係各位に心からの敬意と謝意を表する。
熊本マンドリン協会第7回定期演奏会(1975年、昭和50年)
熊本郵便貯金会館
前列左から6人目が、松井達喜先生です。
2松井達喜先生と熊本マンドリン協会 市原道啓
熊本マンドリン協会の始まりは、昭和29年7月、当時の熊本郵便局での十数
人の音楽好きの職員の集まりからと聞いている。
その中の一人、松井達喜先生(全会長)を柱として、郵便局のマンドリンクラ
ブが動きだした。
私が昭和38年10月に入会した時の松井先生が目に浮かぶ。会員数は100
名を超え、合奏練習が週2回火曜、金曜日、初心者の練習が水曜日と、松井先生
は、練習に週3回を費やしておられた。
松井先生は、音楽面及び運営面で会長兼指揮者として熊本マンドリン協会を切
り盛りし、ボランティア演奏のほか、アマチュア団体として現在の活動の基礎を
築かれた。
例えば出演料は頂かないこと、自分たちの演奏を聞いて頂くこと自体自分たち
も嬉しいし、その上お礼などとんでもない、演奏会弁当は自弁であること、お客
様に食べさせていただくなどこれもだめ、ご飯は自分で食べるもの。初心者の指
導料、アレンジ料については一切いただかないこと、等々。熊本マンドリン協会
は現在もこの伝統を守っている。
松井達喜先生が亡くなられた現在、先生の築かれた全国に誇れるアマチュア団
体として、熊本マンドリン協会は、地道ながら一歩一歩確実に発展していくよう
努力して行きます。 (2001年3月)
3 創立者松井達喜先生の思い出 甲田弘志
あれから30年になります。
松井達喜先生の所属課とは異なりましたが、先生から転勤して来た私にフルー
トで手伝って欲しいと声をかけてくださいました。 曲はフルートソロのある「朱
雀門」。
空調もなく湿っぽい、裸電球ぶらぶらの、薄暗い地下に蚊のいる練習会場には
驚きましたが、少しマンドリンの響きにも慣れたころ、たまたま夜間勤務が同じ
日であるのを知って、真夜中の仮眠時間に、松井達喜先生がいらっしゃる事務室
を恐る恐る尋ねました。
「松井先生が、今晩は勤務なさっているはずですが?」
先生は机にメガネをくっつけるようにして、楽譜を書いてらっしゃいました。
その後も夜間勤務が一緒になった時は、仮眠時間に先生を尋ねましたが、いつも
楽譜を書いてらして、そのお姿を、うしろの方から眺めるだけでした。当時の夜
間勤務は夕方出勤し翌日の朝9時までの16時間で、深夜の2時間が仮眠時間で
した。
あるときお邪魔を覚悟で、思いきって「写譜でしたら手伝わせてください」と
申し上げたところ、「これは私の仕事だから」と、お疲れの様子を見せられるこ
ともなく静かな口調でおっしゃいました。仮眠をとらないままで仕事に影響はな
いのだろうかと、考えました。しかし、同じ課の方々の先生に接する態度のはし
ばしから、また、音楽会のときは多くの同僚の方々が会場にいらっしゃっている
ことを知って、自然に先生のお人柄を伺い知ることができました。
松井達喜先生は、熊本マンドリン協会の指揮者であると同時に、会長もお務め
でした。アマチュアの文化運動とその継続の必要性等を話題に、先生からお話を
伺っているとき、「熊本マンドリン協会ではボールペン1本に至るまで管理して
いる。」とおっしゃったことが、何故か特にはっきりと、そのアクセントと共に
耳に残っております。
やがて私は転勤しましたが、熊本マンドリン協会のメンバーにさせていただき
ましたので、その後も先生指揮のもと、定期演奏会やマンドリンフェスティバル
に参加させていただきました。そして、何よりもボランティアの演奏に参加でき
るのが楽しみでした。
九州の全職場に配付する月刊の部内誌がありました。その編集長から、社会の
中で社会のために地道に活動している人を誌面で紹介したいと、照会がありまし
た。当時の部内誌としては画期的な編集企画でした。そこで私が松井先生のこと
を紹介すると編集長も先生のなさっていることに、感激しているのがよく分かり
ました。
編集長から取材依頼をする前に、私が松井先生に連絡することとなり、先生に
取材の件をお話ししたところ、大変叱られました。「好きなことをやってるだけ
だから」と、淡々とおっしゃった言葉も、思い出されます。
編集長の記者独特の情熱が功を奏してか、写真入りの記事になりました。社会
の中で、ボランティアという言葉さえまだ馴染みのなかった当時のこの記事が、
その後、各職場内でボランティア活動が、花開くきっかけのひとつとなったこと
は、十分想像できます。
記事が出たあと、松井達喜先生から、また叱られたのです。「二度と取材はご
めんだ。記事にして載せるようなことではないはずだ。」と。私はそのとき初め
て、ボランティアの意味を教えられた気がしました。 振り返ると、熊本マンドリ
ン協会のメンバーであることに誇りを持つようになったのは、このときからでし
た。
松井達喜先生が熊本マンドリン協会をお辞めになるときの理由は、誰にも(恐
らく)おっしゃいませんでした。社会の中で音楽会を開くことを発表し、会場を
借り、ポスターを貼り、チケットを売り、一方では、楽譜を書き、練習を重ねな
がら、有料である以上は、その額が経費に見合う分だけだとしても、失敗は許さ
れないという状況に毎日毎日身を置き、大変な重責を担っておいででしたが、そ
のことは、ずっとずっとあとになって、少しずつ自然と、ほんの少しだけ分かっ
て来たような気がします。この種の悩みは、プロの世界のそれとは異質の、社会
人のアマチュア独特のものです。
健康や家庭や仕事を犠牲にしていては、長続きするはずがないのです。
先生がどれほど自分自身に厳しかったか、その毎日毎日の積み重ねを思うと、
そこに熊本マンドリン協会の生きた原点があるように感じます。
辞められたあと、「今も、秋風に会うと肩が疼くと」とおっしゃっていました
が、そのときもまだ私は、先生の、創立時はもちろんのこと、社会の中で熊本マ
ンドリン協会の活動を維持し続けられたことの御苦労は、殆ど理解していません
でした。
「草創と守文と、いずれが難き」(唐、太崇皇帝)この言葉は、(事業を)初
めて始めることと、そのあと維持発展させることと、どちらが困難か?というよ
うな意味と思いますが、松井達喜先生は、その両方を体験され、熊本マンドリン
協会の将来への大きな発展性を秘めた磐石な礎を築かれ、日々の活動を20年以
上にわたり実践され、私達にその姿を身をもって示してくださいました。そのお
かげで今、創立50周年の大きな節目が、視野に入るようになって来ました。
松井達喜先生のあとは、先輩の市原道啓さんが会長に選出され、私が指揮をさ
せていただくことになりました。私は、合唱やブラスバンドの編曲と指揮の体験
はありましたが、マンドリンのことは知りませんでした。ただ、子供の頃から音
楽の環境には恵まれて、スコアを見ながらレコードを聴くことが好きで、印刷ミ
スを探し出して出版社に照会するというような、趣味のよくない趣味は持ってい
ました。運よく地元の交響楽団に所属していましたので、年に2回中央からやっ
て来られるプロの指揮の先生方から盗んでは真似て、そして、会長の市原道啓さ
んや、コンサートマスターの藤井勝之さんはじめ、多くのメンバーのみなさんに
助けられて、指揮を始めました。当時の中央からの指揮者には、石丸寛、山田一
男、山岡重信、尾高忠明、團伊玖磨、外山雄三、手塚幸紀等、今思えば、実に恵
まれた環境でした。しかし、マンドリンのことについて何の知識もない、むしろ
マンドリンのいいところよりも弱点が気になっていた私に対して、松井先生から
は「思ったとおりにやりなさい。」の一言だけだったのでした。 たった一言のこ
の重みは、25年経った今も増すばかりです。
松井達喜先生がお辞めになって2年が経って、翌年に控えた創立25周年記念
の企画検討会の席で、この記念音楽会では松井達喜先生に棒を振っていただくこ
とを提案し、準備にかかろうとしました。ところが「誰が言い出したのか」と、
先生から私は詰問されました。 そして更に、「先日、◯◯パートの◯◯君と、新
市街(=熊本市の代表的な繁華街)で会ったよ。その日は練習日のはずだ。以前
の協会なら考えられないことだ」と、私はさんざん叱られたのでした。
25周年の記念誌ができ上がり、その冊子を、市原会長に連れられて、先生の
お宅に届けに伺いました。丁度、先生は玄関 を閉めてお出かけになるところでし
た。御自宅の前で、市原会長が25年間のお礼を申し上げ、熊本マンドリン協会
創立25周年の記念誌の入った袋を、松井達喜先生に渡しました。袋から取り出
してご覧になった松井達喜先生の分厚い眼鏡のレンズに、記念誌の表紙の紺色が
映りました。 表紙の題字は、松井達喜先生御自身の筆によるものだったのです。
松井達喜先生は、少し笑顔で「ありがとう。」とおっしゃって、記念誌を玄関
の内に納められて、お出かけになりました。
私は、熊本マンドリン協会をお辞めになった理由を伺えないものだろうかと、
この時も思っていたのですが、松井達喜先生の後ろ姿を、市原会長とただお見送
りするだけでした。
松井達喜先生は、あの日から21年が経った2000年(平成12年)12月
29日に、76歳でお亡くなりになりました。
熊本マンドリン協会の活動が、たまに新聞等で紹介されたとき、これまでは、
先生もこの記事をごらんになられただろうか?と思ったりしていましたが、これ
からはそのようなことを、思い遣ることがなくなってしまいました。 それでも、
今日という日が、地球にとってもまったく初めての新鮮な日であるように、絶え
ず新鮮な気持で先生が示してくださったとおり、音楽とボラン ティアという喜び
を糧に、熊本マンドリン協会の活動を、1年、また新たな1年と、積み重ねて行
かなければならないと思っております。
松井達喜先生。順番だけは分かりませんが、いずれは私もそちらへ参ります。
そのときは、棒を振っていただきたいと思います。 練習場所は、空調のある明る
いところを確保しておいてください。 (2001年2月)
40年前に、創立者で初代会長で指揮者である松井達喜先生から『(音楽作りは)自分の思うようにやりなさい』と言われて私は指揮をはじめました。二代目会長の市原道啓氏と私とは「共に白髪の生えるまで」を合言葉に、運営面と音楽面の”迷コンビ”で、緊張感のある充実した楽しい38年だったと、今、思います。
ボランティア活動においても、『甲田さん、◯◯から初めて演奏依頼があったんですよ。懐メロの△△も是非とご希望です。編曲は間に合いますか?』と、幾度となく耳にした市原氏の弾んだ電話の声。松井先生と同じく市原氏もボランティア活動に熱心でした。
その市原氏の会長在任期間は、奇しくも利他に生きた宮沢賢治の生涯と同じく38年。そして市原氏が天上の松井先生のもとに旅立ったのが賢治忌の前日だったのです・・・・・・。
これまでの不思議の縁(えにし)に感謝し、今は亡き松井達喜先生と市原道啓氏に、心からのお礼を申し上げます。
”助け合い喧嘩し合ってひたむきに 二人三脚三十八年”
”喧嘩する相手なければ何かせむ 勝負の続きをしばしあずけん"
”賢治より一日早く旅立ちぬ 利他の大道(だいどう)啓(ひら)き遺(のこ)
して”
また同時に、多くの素晴らしい先輩にも恵まれました。「いつも2年先まで視野に入れておけば心配することはない。」と安武鎮男氏からは声をかけていただきました。松井先生が辞められた後は自然消滅するだろうと思われていた時期のこの一言。もちろん協会がずっと続くことを願っての言葉だったのです。同じ思いの多くの先輩の心を感じその思いに支えられて、毎年の定期演奏会を続けることができました。その定期演奏会も2年後は第50回を迎えることになります。
さて、今宵は、可愛い半ズボン姿だった小学生の頃から交流のある安田知博氏を京都から、生まれたときから今日まで大きく成長する姿をずっと見て来た龍野姉妹を東京とイギリスから、更に地元からは感性豊かで実力ある藤本史子氏と福屋篤氏も加わっていただいての企画。そして演奏する曲も長年の念願が叶い、重く深いテーマを取り上げることができて、誠に意義深い演奏会となりました。
なお、第1部では、アンサンブル作りの取り組みとして、指揮者を置かずに懐かしい歌の数々を演奏します。一人ひとりが心を合わせて紡ぎ出す響きをお楽しみいただきたいと思います。音楽に終着点はありませんが、アンサンブル作りのひとつの大きな通過点に達した、奏者の喜びを感じていただけましたら幸いです。これもお客さまからのそのときどきの厳しい評価と暖かいお言葉があったからこそと、改めて御礼申し上げます。
最後に、今回はタクトを持っての出番はありませんが、もう一人の指揮者・丸山修二が明年で指揮歴20年を迎えます。これまで以上の厳しいご指導と暖かいご支援を、今後もよろしくお願いいたします。
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