「雀通りの猫のうた」題名の由来等
「雀通りの猫のうた」題名の由来等
作曲者:甲田弘志
1−4 「雀通りの猫のうた」題名の由来
ジュネーブ
レマン湖のそばの
レストラン
屋外にセットされたテーブルで
昼食にトーストを食べていたときのこと
私のテーブルに
スズメがやってきて、
テーブルの上のパンくずを
食べたのでした。
小さくちぎって与えると、
他のスズメもたくさん飛んできて
(とんだ災難?でしたが)
賑やかな昼食会が始まりました。
テーブルの上に糞をしましたが、
ボーイさんは別に憤慨もしません。
他のテーブルでも似たような光景です。
水を注文し
コーヒーカップの皿に
少し入れてやると
案の定
飲みました。
もっと入れたら
水浴びしたかも知れません。
さて
ここ
雀通り猫の舘では
毎朝
スズメに食事をふるまいます。
忘れていると
スズメたちは窓がラスに体当たりして
ごはんがないと知らせます。
気づくと
一所懸命空中に留まって
ホバリングをして
催促します。
カワセミのようには
できませんが
ホバリング中は
とてもスズメとは思えません。
当舘では
スズメの食費は
交際費として計上されます。
スズメの声を耳にしない日はありません。
嵐の日は来ないだろうって?
実は
嵐のとき
雀通り猫の舘は
スズメたちの
緊急避難場所に指定されます。
ですから
嵐や大雨の日は
更に賑やかになるのです。
猫も
身近な存在です。
外に出ると
お隣の猫が塀の上から
どちらまでにゃん?
と声をかけます。
帰宅したことを
誰よりも先に
我が家の猫は知っている
ということが
分かるというのは
にゃんともうれしいのものです。
雀でなくても
猫でなくても
一向に構わないのです。
ミカンを乱暴に食いちぎったため
ミカンの汁が飛び散って
その一滴が
ヒヨドリのまつげに付いたときとか
ヒヨドリが
食べてしまったため
ミカンがなくなったよと
カワセミやスズメのマネをして
メジロがホバリングするときとか
健気に
尻尾振り振り
(忠実なふりをして?)
人間の相手をしながら
同時に
風の中の
遠くからの信号を受信中の
鼻先の表情が
突然変わったときとか
(それでも尻尾は振り続けられる)
真夜中に
舘の小さな庭を
偵察に来る
イタチのイタロウが
逆に偵察されていることを
知っているらしいことに
気づいたときとか
排水溝の中のゴミを
運び出してくれたのが
ネズミのチュウタロウだと
分かったときとか
雨が降り出す前に
アリが地面から
いなくなる
とき
と
か
雨上がり
松の葉先の水玉に
太陽が宿るときとか
ジョウビタキが
石をどけてと頭を下げて
お願いしたよな
されたよな
そんな気がして
石どけた
虫がいた
それを素早く捕まえ食べて
次は
あの石お願いと
塀の上から頭をさげて
再びお願いされたときとか
そんなとき
「雀通りの猫のうた」シリーズは
特別なできごとや特異な体験ではなく
普段の生活の中で
ふと発見した
驚きやよろこびをヒントに
作曲した作品のすべての総称です。
それは例えば
(例える相手が大き過ぎますが)
ホイットマンの「草の葉」のような
総称なのです。
2−4 「雀通りの猫のうた」作曲の目的
単体の
楽器として
マンドリンは
ヴァイオリンほど
多様な味や表現力を持ちません。
しかし
アンサンブルとしてなら
音楽の醍醐味を
ある程度は
味わうことができます。
このことは
ヴァイオリンが
幼児期から訓練を積まなければ
演奏できないことと比べ
マンドリンにとって
大切な視点です。
では
マンドリンで
アンサンブルが
簡単に十分楽しめるかというと
そこには
長所がそのまま短所になるという
フレットを持つ楽器特有の問題が横たわっています。
また
同じポジションの
同じ音であっても
奏法の違いで
微妙に
ピッチが変わる場合が多いことも
マンドリン特有の
問題です。
以上のようなことがらを解決して
アンサンブルとしてのマンドリン音楽の
表現力を更に高めることを大きな目的として
「雀通りの猫のうた」シリーズを作曲しております。
そのためのオーケストレーションが
「MOM」です。
3−4「雀通りの猫のうた」と基本モチーフ
マンドリンオーケストラのためのアルバム
「雀通りの猫のうた」シリーズには、
さまざまなバリエーションがありますが、
変拍子であれ全音音階であれ、
第1集から第24集までの
すべての曲は
ひとつの基本モチーフが
そのときどきの形式や構成上の必要性等に応じて
変化発展したものです。
このシリーズが
日常生活の中から
ヒントを得ていることと
作曲の構成(=コンポジション)
とに密接な関係を持たせることを大きな課題として
(オーバーに言えばライフワークとして)
取り組んでみたいとの欲求から
考えついた手法です。
ですから
「雀通りの猫のうた」シリーズは
どのようなタイトルであれ
いわゆる
描写音楽ではありません。
4−4「雀通りの猫のうた」の文学とのかかわり
この項目のタイトルには二つの意味があります。
ひとつは、
「よだかの星」「銀河鉄道の夜」「どんぐりと山猫」
「無声慟哭」「レ・ミゼラブル」
「ミューズの森」「小雀物語」「雀のおしゃべり」
「茶色の朝」等のように、
文学作品や書物を題材にした曲が
「雀通りの猫のうた」シリーズの中に多いことからです。
もうひとつは、
実は、こちらの意味が、この項目のタイトルの主な趣旨なのですが、
それは、例えば、小説では、主人公や相手役、脇役、取り巻く環境、
(作曲では、第1主題や第2主題、経過部、和声、
時代背景、出会い、事件、必然、偶然等がからみ合い、
楽曲形式、対旋律、不協和音、協和音等がからみ合い、
時間と共に、4次元のドラマが、文字だけを使って展開されます。
時間と共に、4次元のドラマが、楽譜だけを使って展開されます。)
文字を楽譜に置き換えると、それが、作曲(=コンポジション)といこと
ではないかと考えている訳です。
小説家があらすじや構成を練るように、作曲でも形式や構成を練り、
詩人が言葉を選び磨くように、和声を求め旋律を磨き、
俳人が言葉を削るように、音符を削ります。
文学作品が、
映像等の手助けなく、文学作品として独立して存在するように
作曲作品も、
映像等の手助けなく、音だけの音楽作品として独立して真価が
問われなければならないと思います。
タイトルがぎょうぎょうしい割りには、
中身の乏しさに、ぎょぎょっとなさったかと思います。
最後までのスクロールを、ありがとうございました。
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