せめて一時間だけでもコンラート・ラテに捧げるピアノトリオ
                           甲田弘志作曲

 
 ペーター・シュナイダー著(八木輝明訳)「せめて一時間だけでも」と アニタ・ラスカー=ウォルフィッシュ著(藤島淳一訳) に衝撃を受けて作曲しました。
 ピアノトリオの編成で、曲は次のように大きく3部に別れています。

第1部 アレグロ モデラート
 ピアノが鍵盤を叩いた直後に、微かに聞こえる自然倍音のH音から音楽が始まります。全音音階とドレミ音階が複雑に絡み合う旋律や、不安定な和声、鋭いリズム等に特徴があります。
 第1部は、「水晶の夜」に始まる強制収容所送り。自分もいつ連行され
るのかという極度の不安と恐怖の中、それらに立ち向かい、ひたむきに音楽を求めるラテの内面世界を表現します。

第2部 アンダンテ カンタービレ
 ショパンの曲によく現れる小さなフレーズ、それはラテもピアノで弾いたであろうと思われます。第2部は(イントロのあと)そのフレーズに始まり、形を変えながらチェロ、ヴァイオリンに受け継がれ響き合い、次第に大きく発展して行きます。
 ここでは、ラテの潜伏生活を命がけで支えた人々と命がけで音楽を求めるラテの心と心の深く暖かい真実の交流を表現しています。

第3部 スケルツオ
 喜びに満ちた音楽が、全音音階や変拍子で勢いよく駆け抜け、また、その喜びはときには異なる調性をも自然な姿で違和感なく同居させます。
 第3部は、奇跡の生還を果たしたラテが、命がけで支援してくれた人々に対し、音楽で恩返しが出来る喜びを表現しています。
 
 なお、第1部から第3部まで、H音で始まりH音で終わります。
 (第1部の始まりは、E音に対して微かに響くH音(=自然倍音))

◯初演は2015年9月27日(日)平成音楽大学サテライトステージ 
  九州・沖縄現代音楽祭(Vn:龍野マリエ Vc:石垣博志 Pf:藤本史子)
◯楽譜は(株)マザーアースから出版
  

コンラート・ラテについて
◯「せめて一時間だけでも」の主人公のコンラート・ラテはポーランド生まれのユダヤ人です。

 ”水晶の夜”以降始まる強制収容所送りを逃れて、音楽を求める熱い情熱から、彼はなんとナチス政権下のベルリンに潜伏しました。


◯ゲシュタポによる監視と密告が横行する恐怖の中、ラテはもちろん命がけ。彼の毎日の地下生活を支える普通の市民も命がけ、彼に音楽を教える先生も命がけでした。


◯戦後、奇跡的に生還したラテは、トマス・マンからの米国移住の勧め等も断り「命がけの危険の中で手を差し伸べてくれた人たちがここにいるからこそ」とドイツに留まって、ベルリンバロックオーケストラを設立し、助けてくれた多くの市民のために、生涯をかけて音楽で恩返しを果たしました。


◯子供時代には、ラテがピアノ、妹ガービがヴァイオリン、ガービの友だちのアニタ(*)がチェロを演奏し、ピアノ三重奏を楽しんだこともあったと伝えられています。


(*)アニタ:外に出ることができるのはただ一度、煙になって煙突から外に出るときだけと言われた強制収容所のアウシュヴィッツ。アニタはチェロのお陰でその収容所内の合奏団に入れられ、幸運にもガス室送りを免れて奇跡的に生還しました。収容所の合奏団の指揮者は、ウイーンフィルのコンサートマスターを父に、マーラーの妹を母に持つという女性でしたが、収容所内で死亡。アニタは戦後はイギリスに渡り、ダニエル・バレンボイム等と共にイギリス室内合奏団を設立しました。アニタは「チェロを弾く少女アニタ」で知られています。
(参考)
 収容所の合奏団の指揮者の名はアルマ・ロゼー。彼女の父アーノルド・ロゼーは当時世界最高のコンサートマスターと呼ばれ、ロゼー弦楽四重奏団の主宰者でもありました。合奏団は、ヴァイオリン、フルート、ギター、マンドリン、アコーディオン等の編成で、オーケストラと呼ぶにはほど遠い編成でした。しかし、「チェロを弾く少女アニタ」の中に、次のような記述もあり、合奏団のレベルは音楽的に相当高いレベルにあったことを知ることができます。
『メンバーの一人ファニアはベートーヴェンのピアノソナタ「悲愴」を、彼女の記憶だけを頼りに弦楽四重奏用に編曲して、自分たちの楽しみのために室内楽を演奏したのである。アウシュヴィッツで室内楽の夕べ! こうして私たちは真の意味で、自分たち自身を、生き地獄の中から、収容所生活での屈辱などが触れることができない、天空の高みまで持ち上げたのだった。』
          
      
◯「せめて一時間だけでも」
   ペーター・シュナイダー著・八木輝明訳(慶応義塾大学出版会)

◯「チェロを弾く少女アニタ」
   アニタ・ラスカー=ウォルフィッシュ著・藤島淳一訳(原書房)